logic system continued.

http;//d.hatena.ne.jp/hello-m/ ではてなダイアリーで12年間書いてたブログ『logic system』から引っ越してきたので、その続き、という意味での『continued』。

Viva La Vida.

生きていくことの難しさを語ったエントリをアップした、2日後。

より突き刺さる形で、その難しさを直面することになった。


12月18日夜遅くに自室に戻ると、twitterでDMが来ているのに気づく。「突然ですけどメールアドレス教えてもらえませんか?」んー何があったんだろ、どしたー?といった感じで、メールアドレスを教えたら、そのメールアドレスに届いた内容に目を疑った。

友人の訃報だった。


11歳の時にとあるクイズ番組に共演したのが、そいつとの出会いだった。(昔からのクイズファンの方なら、この書き方だけで誰のことなのかわかるかもしれない)話進めていくうちに、同い年にしてはお互いひねくれた趣味を持っていて、変にベクトルが合っていやがる。しかもお互いの家まで2駅。そんな偶然が重なって、自分にとっては学外で出来た、初めての友人となった。インターナショナルスクールの外の世界を知る手段が無かった自分にとって、実に貴重な存在だった。

学友との縁を切っていた自分にとって、以来そいつは、現在に至るまで、最も古い付き合いの友人となった。年齢を重ねるにつれ、会う頻度も減り、しまいには年に1回程度しか会う機会がなくなっても、まぁ家も近いし、時間があれば会おうと思えば会えるし、互いに対して心配することもなく、このまま爺さんになるまでもこんな感じなんだろうなーと思っていた。

人間、本当の意味での「親友」というのは、一人いれば幸せな方なのだと思う。向こうがどう思っていたか、今はもう知る由も無いが、少なくとも自分にとっては、あいつはそんな、唯一無二の「親友」と呼べる存在であった。


メールの送り主はC氏という、その友人と恋仲にあった女性だった。自分も10年ほど前から、何度か顔は見かけていた。twitter上での付き合いがあったり、30歳の誕生日パーティをやった時には、2人で顔を出してくれたりもした。メールでの説明曰く、「死因は突然死。しかし直接的な原因になるような、脳や血管の異常、及び薬物検出は一切無かった」「御家族との話の間で自分の名前が上がり、知らせなければと思った」それから通夜・葬儀の案内が書いてあった。

正直、気が動転していた。なんとかご家族の方に連絡が取れないか、C氏に返信していた。メールの返信を待つ間、前述のクイズ番組で知り合った人間に、深夜近くであることを承知で電話をかけ、あまりに突然過ぎる訃報と、葬儀の詳細などを伝えた。ようやく遅くになり、友人のお母様と連絡がついた。最も辛い立場にいるはずのお母様は、親身になって詳細を伝えて下さった。

「かくも生きるのは難しい。本当に難しい。」―自分のエントリへの返信の意味もこめて、ネット上でこうつぶやいたのは、この日の深夜3:34のことだった。


12月19日。昼過ぎに目が覚めたと思う。夕方にお母様から電話がかかってきた。やはり確固たる原因は見つからず、「緊急心停止の疑い」とのこと。遺体は家に帰ってきたということで、一も二も無く、訪ねさせて頂くことにした。C氏にもその旨メールをした。

前日に続く、寒い大雨の夜だった。小さい頃はよく遊びに行ったご実家、道はよく覚えていた。そこには変わり果てた…というにはあまりにもそのままな、ただ寝ているだけなんじゃないかという、そいつの姿があった。随分と久しぶりにお会いするご家族の皆様の表情は柔らかい。司法解剖の結果、やはり一切の異常因子は見られず、「緊急心停止の疑い」とのことだった。少しずつ話をしていくうちに、ついに実感がわいてきたのか…自分の父の死でも泣かなかったというのに、十数年ぶりに、目から涙がこぼれ始めた。

最後に会ったのは、沖縄である。1年近く会っていなかったのに、沖縄で会うのも初めてだった。偶然向こうは出張で、飛行機が出るまでに3時間ほど時間が取れた。一方自分は12日間の滞在の始まりだった。沖縄や石垣に行くことはよくあったが、自分と違って家族旅行や出張だったため、街のことはよく知らなかったようで、商店街から桜坂や浮島通りなどの裏道案内をしたり、土産に肉を大量に買うのに付き合ったりした。それからわずか3週間余りのことである。あの時と、大して顔は変わらなかった。変な話だが…「よく間に合った」そう思った。

程無くして、C氏と、中高大と同じであったというA氏という友人の方がいらっしゃった。しばらくして、遺体を囲み、3人でいろんなことを話した。C氏やA氏などは、仲間内の集まりなどがあったものの、自分はほぼ常に、この男とは1対1での付き合いだった。それだけに、この男の周囲に様々なつながりがあったことなど、何も知らなかった。そう考えると、ご家族とC氏の口から、よく自分の名前が上がり、連絡がついたものだ。C氏が自分にコンタクト出来なければ、自分はこのことをずっと知らないままだったかもしれなかった訳である。

ご実家を出る頃には、もう22時近くになっていた。時折、目が潤むことはあっても、さんざん話をするにつれて、若干ながら気は晴れていた。「明日、ライブとオールの予定だったんだけど、不謹慎かなぁ」「止めるような奴じゃないと思うよ」「だよなぁ、好き勝手されてきたんだから、好き勝手させてもらうわ」そんなことを言いながら、家路についた。


12月20日。Zepp DiverCity Tokyoに、KEMURIとBiSの対バンライブに向かっていた。ただ、行きのバス停で、いきなり泣きそうになったのは参った。途中までは前日の道のりを辿っていた訳で、それがいちいちフラッシュバックしてきたのだ。大幅に遅刻してライブ会場に着いて、BiSは2曲しか聴けなかったが、KEMURIは3列目くらいで見ていた。『One Life, No Regret』『Birthday』『Ato-Ichinen』そんな曲名が耳に入るだけで、いちいち涙がこみあげてきて、参った。ライブの前後、名も知らぬKEMURIファンの集団に混ざって話をしていた。「声」が必要だった自分には、そんな時間が実に嬉しかった。

モッシュですでにボロボロになった体を引きずりながら、新木場へ、ROAD TO ULTRA TOKYO。Above & Beyond来日ということでやってきた。名曲『Can't Sleep』泣かせるトランス。大学時代あたりでどっぷりだったトランスの音色に、またも涙腺が緩んだ。飲まなきゃやってられない…といったところで、普段の仲間とは違うDJと知り合って、何故かさんざん酒を奢ってもらった。かなり強めのショットを連続で流し込んだ。普段だったらこの程度ではさして問題は無いのだが…帰宅してからほぼ全てを戻してしまった。


12月21日。ようやく眠りについたのは、昼も近い11:30頃。しかし13時に起こされた。この日はとあるイベントのための会議があり、この日しか取れなかったのだ。オール明けになるよ、とは伝えていたものの、まさかここまで憔悴しきった状態になるとは思ってもいなかった。

会議を無事にこなしてから、通夜のために出かけるギリギリまで、体を休めていた…ら、途中で血便が出た。友人が突然死を経験しているというのに、自分が不養生なんてまずいだろ。そのうち、ギリギリを過ぎてしまい、慌てて出かけると、3連休の始まりのせいか、バスもタクシーも全然来ない。ようやく来たバスで駅に着いたらもう通夜の始まる18時。本来なら真っ先に来なければならないのに…結局30分以上遅れて到着。祭壇が組まれ、遺影まで掲げられているのを見て、内心ではまだ、「ドッキリなんじゃねーの?人集めたかっただけだろー」とか思っていました。しかし、いざ焼香となると、やはり平静を保つのは難しく…。

清め所に降りると、12年間音信不通で、今回ようやく連絡がついた、かつての知人と再会出来た。また、かろうじて知っている数少ない彼の友人達とも話し合ったりしていた。葬儀場を出るのに最後まで粘っていたりして、帰る前に棺の中の顔を見てみると、真っ先に浮かんだ言葉は一つだった。

「ふざけんなよ…」

行ってしまう兆候なんて微塵も無かっただけに、自分だって驚いてるだろう。それにしたって、何故お前が先なんだ。何故恋人を残して去った。何故仲間を残して去った。俺なんかよりお前を惜しむ人間は多かったはずだ。何より俺はどうすればいいんだ。わりと本気で、この体があるうちに、一発引っ叩いてやりたい、とまで思った。

帰宅後、どうしようもなく眠かった。葬儀場で軽食は出たものの、当然ろくに入るはずもなく。少し胃にやさしいものを摂ってから、眠りについた。


12月22日。日が変わる前に寝たはずなのに、目が覚めると、まだ午前4時にもなっていない。なんなんだ。結局それから眠れないまま、葬儀へ。店の営業前なので、母も同行してもらった。焼香や献花などを行った気がするが、細かいところは覚えていない。ろくに眠れなかったことや、もはや形式的な儀式に疲れていたのもあったか、涙の代わりにただただ深いため息を何度もついていた。この段になると、今日に至るまで取り乱すことが多かったC氏の心配をしており、とりあえず目を離さないようにしていた。

火葬場で泣き崩れながらも、休憩室でとっととビールを開け始めるA氏をはじめとした友人席で、またもよもやま話モードに戻る。いい加減「一杯だけ」が一杯でなくなるのをどうにか…と言っているうちに、1時間ほどで火葬が終わり、納骨。戻りのバスで、結局、どっちがお互いのことを振り回してたんだろうなぁ…と思いながら、ついに眠気に負けてしまったようで、気がついたら葬儀場の近くまで戻っていた。初七日法要も済ませ、食事が出て献杯、となったところで、トイレに駆け込んだ。これで全て済んだのか…という実感が直撃し、誰にも見られないところで、慟哭。しばらくして、会食と会話。

結局、葬儀場から最後に去ったのは、ご家族と最後まで語っていた、C氏、A氏、自分と、自分が呼んだ人間の中で唯一火葬場まで付き添ったE氏の4人だった。もうすっかり夕方。葬儀場から家までも2駅だったので、一旦帰ることも考えたが、そのままもともと予定にあった参宮橋に向かうことにした。ただ、一人で離れる気分にもなれなかったので、一旦新宿まで出て、3人を見送ってから戻ることにした。C氏の肩に手をおいて声をかけ続けたことは覚えている。

参宮橋に着くと、クイズ大会の決勝だった。本来なら、この日の大会で9ヶ月ぶりのクイズ復帰をする予定だったのだが、気分的なものか、それともブランクの間に考えが変わったか、決勝を見ているだけで、お腹一杯になった気分だった。しかし、久しぶりに会いたかった人達もいたので、懇親会には参加。自分には珍しく、ウーロン茶のみで通していた。その後、前のこととは関係なく、クイズについてのスタンスをどうすればいいかなど、クイズ側での知人のN氏に、遅くまでコーヒー1杯で付き合ってもらう。

そのまま渋谷へ。2日ぶり2回目のageHaへ。心身ともに限界だったが、全身が音楽で満ちていく感覚に、なんとなく晴れやかになっていた。さすがにもう酒は飲めないと、初めてageHaでミネラルウォーター1本だけで通したが。クラブ仲間とも顔を合わせ、朝になって一緒につけ麺を食べに行ったりして、なんとなく、全てから解放された気分になれた。帰りの電車で2人になったクラブ仲間の1人にだけ、そこまでの経緯を打ち明けたところ、「クラブに行ってすっきりした?」と問われ、心から「すっきりした」と答えられた。


12月23日。この日はライブだったが、当然もう体は限界。3日ぶりに熟睡した。目が覚めて、夕飯を食べて、起きているといろいろ考えてしまい、程無くして眠りについた。


12月24日。そういえばクリスマスイブだった。この日は母に親孝行をするために、Billboard Live TokyoでStylisticsのライブを予約していたんだった。ライブ自体は楽しめたが、まだ体が本調子ではなかったか、帰ったら自分でも気づかないうちに眠っていた。


12月25日。昼間から渋谷に出てライブ。その後、クリスマス礼拝でもやっていないか教会を探すも、ほとんどが午前中で終わっている。仕方が無いので、一人カフェに入ってケーキを食べ、イルミネーションを見に表参道まで歩いたら、表参道ヒルズでデザインフェアをやっており、学生時代の感性が蘇える…と同時に、過去1週間の出来事と相まって頭がオーバーフローを起こし、その場を去る。渋谷に戻り、知人の店に初めて立ち寄り、失いかけていたクリスマスムードを取り戻したり、アミューズメントカジノでブラックジャックを打ってみたり、知人の働く沖縄居酒屋に時間オーバーしているのに寄ったりして、気がつけば終電で帰る。


12月26日。一日中寝る。録画の消費をしながらも、起きていると何とも言えない感情のフラッシュバックの繰り返し。食っちゃ寝しか出来ない自分に嫌悪感を抱きつつ、今は休むしかないと自分に言い聞かせる。


12月27日。朝のまともな時間に目が覚めて、ようやくこのエントリの執筆に取り掛かる。書いて落ち着くかと思いきや、途中で感情の起伏が生じ、昼食を挟んで5時間もかかってしまった。ここまで読んでいる人、まだいるんだろうか。



この歳の野郎同士がそんなにべたべたする訳もなく、互いに我関せずと生きてきて、たまに元気にやっているのが確認出来ればいいや、という程度にやってきた関係で、このままずっとそれが続いていくんだろう、と思っていたのに…今では奴のことが頭から離れず。そういった意味でも、どうしてくれるんだまったく、と思ってしまう訳で。さらにいえば、命日となった12月18日は、6年前に自分の父が他界した日。向こうで探し当てられるだろうか。早くないか、と言われながら、会えてないだろうか。奇しくも墓地まで一緒だという。墓参りの時の立ち寄り先が、1ヶ所増えることになった。

父が亡くなった時は、もう自分は死ねないな、と思った。今回のことで、また一つ死ねない理由が増えてしまった。突然死となると、あらゆる要因について、ナーバスにならざるを得ない。オールだの何だのしまくって、言えた義理じゃないが。

ただ、ここ1週間で会った人達に、普通に笑顔で接していた中で、こんなことを抱えていたのだ、という説明がしたかった。それから、この期間に関わった全ての人に感謝しなくてはならない、という思いも強かった。水曜の夜からずっと、ソーシャルメディアへの投稿を自粛していましたが、このエントリを以て、復帰致します。文章にしたからといって、終わりだとは思っていません。どこかで区切りをつけなければいけないと思いながらも、この出来事を「過去」としてはいけない。

だから、どこで終わらせていいかわからない、微妙に歯切れの悪いけりのつけ方ですが、この一文で締めくくろうかと思います。

Viva la vida.

彼に訪れなかった明日を、自分が、自分達が、代わりに歩んでいく。