logic system continued.

http;//d.hatena.ne.jp/hello-m/ ではてなダイアリーで12年間書いてたブログ『logic system』から引っ越してきたので、その続き、という意味での『continued』。

サンクチュアリ/大人の聖域。

日テレの深夜番組。沖縄に移住した宮本亜門を訪ねて、と言うことで見てみた。
何もかも嫌になった時に、仕事などを全てを捨てて、さぁどうしようと思った時に、ふと頭の中に引っかかったのが沖縄だった。CMのために1回仕事でコーヒー飲みに行っただけで、何の接点も無かったんだけど、何か頭の中で引っかかってた。それで沖縄にアパートを借りて、土地を買ったはいいけど、そこに家を建てるか、人に売ってしまうか1年半悩んだ末に、「自分にとってマイナスになることは何も無い」と思い、沖縄に家を建てた。
宮本亜門が沖縄に移り住んで、その家の設計が素晴らしい、と言うのは結構有名な話だったりするんだが、その家を実際に巡ってて、その中で耳を引いた話が2点。
1つは、家の廊下とかにデザインとしてブロックを使ってて、「どっかにブロックが無きゃ沖縄の家じゃない」とか言ってたこと。俺はずっとその家を見ながら、2月に3日間も連続で泊めてくれた友人の言葉を思い出してた。沖縄っつったらイメージとしては赤瓦の家に牛車がどうこうって出てるけど、実際の沖縄の家は台風がしょっちゅう来るからコンクリートばっかりだ、と。俺は沖縄に行った時、最初からそう言うイメージを捨てて、「自分の目で見るものが真実だ」と思って行った上に、出来るだけ地元の友人に「真実」に迫るものを見せてもらった*1。沖縄をテレビで見せる以上は結局美化するんだろうなぁ、と思ってたけど、そのブロックを見た時に「ああ、やっぱりそうなんだよな」と思って、少しほっとした気がした。
もう1つは、家の中に「掛け軸をイメージした部屋」と言うのがあったこと。掛け軸の紙と掛ける高さと言うのはそもそも、「自然を切り取る」「自然を見る」事において最適な大きさである。ならば、実際に自然を切り取ったらどうだろうと、その部屋には「掛け軸大の窓」があったのだ。普段見る風景でも、そうやって実際に切り取られた状態で見たら、また違ってくるはず。…とまぁ、演出家の家であるだけに、至る所に「演出」が加わっている訳だ。演出し過ぎて仕事がはかどらないくらい落ち着くスペースになってしまった、と番組中では笑って語っていたけど、例えば自分が関わってきた映像って言うのはまさしく「切り取る」美術である訳で。というか、芸術そのものが「切り取ること」の美学である訳で。
ここ語ると長いから端折るけど、映像は必然的に視角やら時間やらさまざまなところに制約がかかって、そうやって「制約を作る」「仕切っていく」ことが、映像の美学の一つである、と。絵画や彫刻など静的な美術と決定的に違うのは、そこに「時間軸」が加わることであり、舞台や演奏などの動的な美術と違うのは、一つの媒体に記録していくがために、「偶然性が無い」。どちらにしても映像ならではの「制約」である。それが足かせになることも実際あったりするし、だけどそれが一番の魅力でもある。
旅行に行って自分が何を見るか、という一つ一つの選択にしても、文章を書いている時にどう言う言葉を選ぶか、という選択にしても、制約の中の表現活動である訳だから、何をなくしてもそれだけは絶対になくしたくないなぁ、と思う。ここまで広く「表現」を定義すると、もちろん自分の中で終始する事の方が多いし*2、人前に見せるものは少ないんだけど。
…話が大幅にそれた。夜中の一人語りは結論には至らない。

*1:これについてはいまだに感謝の念が耐えない。次行く時はせめて免許取ってからいかないとなぁ。

*2:だからバックパッカーとか「自分探し」とかって世間的にあまりよく思われてない人も、やってることは「表現」の一環だと思う訳ですよ、俺は。それを実際にプレゼンテーションとする媒体が無い、もしくは手法がわからないだけで。